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日本の世界遺産16件に [文化]

 2011年6月25日のユネスコ世界遺産委員会で「平泉」(岩手県)を世界文化遺産として登録すると決まりました。平泉については平泉町のホームページ等で調べて見て下さい。よく理解できると思います。
 日本にはこれで、自然遺産が4件、文化遺産が12件になりました。自然遺産は国土の広さが数に影響するでしょうね。そして、文化遺産は歴史の長さと文化への愛着というか、古き良きものに対する理解、そして、現在へ、そして、未来への継承の取り組みがあって、認め続けられるのでしょうね。
 自然遺産にしても、未来への継承の問題が起こっています。指定で観光客が増加した結果、いろいろな問題が顕在化し、環境破壊が起こりつつあるところもあります。指定を受けるというのは、未来への継承をおこなうということにもなるのですね。
 現在の日本では、古き良き部分が忘れ去られ、どうでもよいような古き部分が残ってきているような感じがします。「政局」があって、「政策」がないような国会とかですね。「過去に目を背ける」という伝統も残っているような気がします。これは、国をして、制度として「過去と向き合う」ようにし、「自己を省みる」ということを繰り返す必要があるのですが、国会議員の行動とかを見ていると「省みないでワンパターン行動」、どうにかならないですか。
 今回の震災では、前にも書いたように「官僚丸投げ」のほうがよかったのではという事態ですね。自由民主党でも同じではと思います。それで、この円高、どうして誰か教えて。

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京都大学などでのカンニング事件 [文化]

 3月4日にYahooで見つけた記事にフジテレビ系配信の『入試問題ネット投稿事件 逮捕の予備校生「またの間に携帯電話を隠して手で入力」』というのを見つけました。この記事の分は英語です。
 本来は「カンニングしない」というのが原則であり、守って貰いたい原則ですね。ただ、ちょいちょいこれを破るのがいるので「試験監督」というのがでてくるのです。ですから、試験をする方はできるだけカンニングのしにくい問題にする必要もあるのですが、現実はそこまでの考慮はされていないですかな。実質的には多数の資料による長文読解で、長文の論述をさせるとカンニングはしにくくなります。
 今回のは、これ、試験監督に問題もあったのではという気がします。まあ、携帯は片手で使うのが普通の人もいるのですが、PCのキーボードのブラインドタッチの人よりは入力に時間がかかるのではと思います。そして、投稿後の回答待ちの間もちょいちょい見ているのでは。そして、書き写すときの見ているわけですね。そうすると、本来机の上にある視線が極端にからだよりになっているのに気がつくはずです。
 本来向くべき視線と違う視線になっていたら、短時間でも疑うべきですね。その後、しばらく注視、そして、背後とか近寄っての確認とかすれば、4大学で京都大学では英語と数学2科目ですね。これだけ、連続して成功するわけはないと思うのです。試験監督が複数で監督しているから「カンニングなんかない」と思い込んでいたのかもしれないですね。教室が大きいと相当な人数にしないと死角が出てきますよ。
 これは、日本的とみれる面もありますよ。現状をよしとして、現実を直視しない性格。あ、これは諸外国でも結構あるかも。ですから、政権与党という現状のみを見て、日本の将来を切り開くべき責任もあるというのを忘れている議員の多い現実かな。まあ、アメリカでも共和党がこれに近いタイプかな。ところが、日本はすべての政党といっていいぐらい政権の座につくと現実が見えなくなる見たいです。
 大学入試で「カンニング」騒ぎが長年、なかったか、あるいは、公にされてなかったかで、入試では「カンニングなし」と思い込んでいた節が大きいと思います。
 ですから、他の受験生がいろいろな大学でカンニングしている可能性は結構あると思います。 

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勉強の目的 [文化]

 2011年もはや9日になりましたね。ところで、時々、書いている「勉強の目的」ですが、最低限の目的数は2つかな。そのひとつはよりよい人間になるための基礎を学ぶというものですが、これは果てしがないですね。この目的にも使えるのですが、「勉強の方法をつねに考えて鍛える」という面かな。これは、どの方面の研究するかとかいうために使えるのでいろいろ役にたちますね。
 そのほかには「立身出世」のためとか、「世の役にたちたい」とか、「よい成績」とか、あるのですが、基本的には前の二つができなうとあとの方は空回りしますね。
 2011年1月8日の日本経済新聞文化面「私の履歴書」(商船三井最高顧問生田正治氏)の中で氏が通われた慶応義塾大学教授の話「どの専門分野も2年間で究めることは到底できない。要は常に課題を見つけて自ら考える力をつけること。課題に対してどう知恵をしぼるか、頭の中に解決のためのインデックス創ることだ。自分のゼミはその道場だ」というのがありました。これは、勉強法の鍛錬こそが必要だということの表れだと思うのですが、基礎として十分な教養があってのことでしょうね。
 勉強というので、「目的」達成のためにはなにかこれをすればよいというのはなく、やはり、まずは「よりよい人間になる」ための幅広い役にたつ教養。それをもとにより深く教養を深化させるための方法という組み合わせというのがいつの時にも必要な最低限かな。「これを覚えればよい」というようなものは人間形成の初期にはあっても、よりよい人間になっていくときには役にたたなくなって行っているようです。

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新常用漢字が告示される [文化]

 11月30日に常用漢字が官報に告示されました。今回は「これまでの1945字から新たに196字を加える一方、あまり使われなくなった5字を削除し、あわせて2136字になります。」ということです。
 PC・携帯電話等の発達で扱える漢字数が増加しているのも背景にあるでしょうね。それと、制限しすぎていたという面も。なにせ、PCでは7000字以上、「超漢字」というソフトでは10万字以上かな。もっとも、普通の生身の人間では、7000でも覚えきれないかな。
 ただ、漢字の数が増加することはそれだけ、日本語表現の幅が広くなりますね。この程度の増加で「勉強する子どもが可愛そう」とかいうのは、日本語での表現力が元々ない人かもしれないですね。豊かな日本語にするには、漢字が必要です。これだけ、漢字にどっぷりと浸かりきってしまっている日本ですからね。カタカナ書きの外来語のわかりにくいこと。
 ただ、常用漢字は公的文書や新聞等で使用する漢字の目安になるのですね。「ふりがな」とか「脚注」などを加えることでもう少し多くの漢字を新聞等で使って欲しいですね。
 今回の告示には、もう一つのこと、「時代とともに言葉が変わる」というのも影響しているでしょうね。同じ単語に対しても年代やその他でその持つ意味合いに違いが見られますね。その違いが大きくなっていって「誤解」とかが生じる原因とかになるのでしょう。そして、「古文」というものにね。
 ですから、時代とともに見直されるべきものですからというのですが、「29年ぶり」というのは間が開きすぎかもと思ったります。いかがでしょうか。
 それと、「漢字の有り難みがわかる教育」でよい方法はないでしょうか。

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効果の過大信奉 [文化]

 10月3日のSUNDAY NIKKEI健康面に『フォードファディズム① 食物の健康効果 過大に信奉』というのがありました。
 特定の食品を食べれば、それだけで健康によいとか、ダイエットできるとかいうことについてです。食物の健康とかに与える影響を過大に評価したり、信奉することを「フードファディズム」(偏狂的な食生活)というそうです。
 最近、テレビでの食品に対する報道の仕方にこの「フォードファディズム」を煽るような番組が結構目につきます。そして、納豆が売り切れたり、バナナが売り切れたり、寒天が売り切れたりなどしていますね。今あげた食品は単独でもそれぞれの分野で有用な食品です。でも、これだけ食べれば健康問題が解決するということはないですね。
 そこに見えるのは「楽して・・・したい。」ということでしょうね。それを煽って「これだけ食べれば・・・」という思いを抱かせるような番組や記事などが目につきますね。普通に出回っている食品には、単独で良い効果の出るものはないと思いますし、単独で普通の摂取量で害のあるものもないのです。
 要は、いろいろな食品分類からそれぞれ適量を摂取するということが一番の健康への効果が期待できるのですが、インパクトがないですね。それで、単一品目で効果を煽ることがなされ、また、消費者がそれに乗ってしまうことが問題ですね。
 これには、教育の問題を含まれている思います。「でることのみ暗記すればよい」とかいう風潮も「フォードファディズム」と同様の考え方だと考えます。「楽して・・」というのが根底にあるのですが、「丸暗記」は非効率で有名なのに絶えないですね。そして、例えば、入試科目のみ勉強というのも、単品食事と同じで学習に悪い効果を示すのになくならないですね。
 学術的に検証されて、否定されたことでも、報道などのされ方で信じてしまうような人に教育されてしまったともいえますね。だから、「過大に信奉」して、その弊害にあとあと苦しむ人が出てくるのだと思います。

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「いいかげん」に潜む真理 [文化]

 8月21日の日本経済新聞夕刊「こころ」面に大阪大学特任教授の柳田敏雄さんの生物の「いいかげん」さなどの話が出ていました。詳しくは新聞で。
 生物ですが、「生きる」ということに対しては結構厳密だと思うのです。三毛猫の柄ですが、クローンでも同じにならないとか。どうしてでしょうか。これは、毛の色の遺伝子がX染色体にあって、X染色体が2本必要です。ですから、ほとんどがメスですね。雄は突然変異体になるので珍しいことになるのです。
 雄は元々X染色体を1本しか持っていないので、それとバランスを取るためにメスでは、各細胞で2本あるなかのどちらか一方がアトランダム(いいかげんですね。)に不活性化されるので発生の時、一定にはならず柄がすべて異なることに。アメリカでクローンペットをつくっていた会社が営業を止める理由の1つだったらしいです。元のと柄が違うという苦情かな。
 ですから、一卵性双生児でもよくよく付き合えば、まあ、親は区別できるとかいうのはこのあたりのことですかな。
 脳の活動も「いいかげん」な面を持っていて、いろいろふらついている。寝ているときも起きているときも活動していて意識と無意識の間を行ったり来たりしているというのです。創造性も脳がふらついていていいかげんだから生まれるというのです。ふらつかずに特定の考えに固執したら、創造性がなくなるどころか「現実」の多様な現象も見えなくなりますね。それが、あの大戦の時に起こっていたのです。
 現在も「マニフェスト至上主義」という考えに固執している向きが「起訴される可能性がある人物」の某政党の代表戦に出馬を要請している感じです。国民新党もある考えに固執しているし、社民党もですね。
 結局は「一つのことに固執せずに世の中を楽しく見よう」ということが現状を打破する新しい考えが出てくる可能性がありますね。ところが、現在はどこもかしこもその集団なりの固執が跋扈している時代になってしまったと思います。それが、いじめを増やしたり、自殺を増やしたりなどの社会問題を増幅していると考えられます。
 「もっといいかんげんに」できるところは「いいかげん」に、そうしたらダメな部分はどのようなところかも考えてみて下さい。最低限、健康で生活するということには妥協をしないでください。この「いいかげん」というのは「脳の働き」に関してですよ。喫煙はダメですよ。

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虐待と躾の狭間 [文化]

 3月7日の日本テレビ「真相報道 バンキシャ」で「一家でホームレス 止まらぬ"虐待"の連鎖」というのがありました。結局、子が虐待で死亡してしまうわけですが、その時の親の言い分が『「躾」のためにしている』ということですね。
 「躾」ですが、育ててきた経験からいいますと、叩く、罵倒する、食事を与えない、等々などおこなわなくても普通の大人に育っていきます。暴力的方法で育てるより良い大人にね。
 「叩く、罵倒する、食事を与えない、等々」をおこなうというのは、「虐待」そのものであると考えられるのです。子どもがそれなりに生活体験を積んでいけば、「穏やかに親が良い見本を見せつつ、諭せば」躾はできるのです。親が見本を上手く見せるというのは、よくいわれる「親の背中を見て育つ」というものです。
 それと、「家族」の見本は大抵、育てられた家庭しかないのです。そして、それを「よい家庭」と思い込んでいるというのも虐待の連鎖に繋がっていると考えられます。
 ですから、虐待の防止は「暴力的行為」があれば、警察権力を使ってでも介入するほかには、子どもを助ける方法はないと考えます。「親権」は虐待でない状態でのみ行使できるものとする必要があると考えます。虐待の中には「見えない虐待」という現象もあるといわれています。「親の期待で子を縛る」というのも虐待にはいると斉藤学氏が著書の中で述べられていました。それから考えると「成績不良に付・・・」とかいうものですね。暴力ではなく、何らかの罰を与えるというものです。
 もっと虐待の概念を拡大する必要があるのが日本です。欧米に比べて何周遅れているのか、想像がつかないです。これは、子どものみならず大人を含む「メンタルヘルス欠如社会」だからでしょうね。
 親が子どもに見本を見せるためには「時間的ゆとり」が持てるような賃金や労働時間が必要になるのですが、工場が海外との競争に疲れて、海外に出ていくような経済政策を続ける限り、そして、高付加価値で勝負できる企業の足を引っ張るような政策をしている限り(規制がこれに当たるかな。)厳しいでしょうね。もっと、国内で雇用が持続的に増加させるには製造業などの付加価値をつけた製品やサービスを海外にも輸出できるような産業ですね。
 それと、「よい親」になるためには学習が必要であるということで、学習機会を増やしたりして啓蒙することもね。このときですが、「学習」は強制されてするものではないということを、よりよい人間になるためにするものであるということを広げる必要が。ですから、学校での順位とかは止めるべきで、「到達度」とかに評価を変え、フィンランドみたいに理解の遅い子どもに手厚い補習とかを出来る体制も必要です。
 日本での虐待は「虐待の連鎖」が起こっているので減らすのは難しいかもしれないですが、子どもを助けるためには警察権力を使ってでもおこなう必要があるのではと思います。

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よく考えれば、非常識をしたがる民族かな。 [文化]

 12月26日にYahooで見つけた読売新聞の記事に「兵庫のコウノトリ飛来、三重・鳥羽にすみ着く」というのがありました。
 読むと最後の方に次のような談話が。『コウノトリの郷公園では「水田付近に、生息できるだけのフナやドジョウなどの餌があるのだろう。見かけても餌はやらず、そっと見守っていてほしい」としている。』というのです。これは日本の非常識「餌付け」を心配してのことでしょう。日本独特の自然破壊の行動です。野生状態においておくのが最善なのですが、どうも「手懐けたく」なるようですね。それが、回り回って人間生活を脅かしている例は枚挙の暇がないですね。
 「効率性」のみを求めて「非効率」の絶頂になるのが教育や学術研究の分野かな。人間なんて「自分で経験する」(時間と金がかかります。)とかが大切なのに「バーチャル」で経験の代用が出来ると思い込んだり、「テストに出る」項目のみ暗記しようとして、覚えたことの関連性や意味がわからないから「忘れまくっている」現実を直視しようとしない。
 研究でも下村博士のオワンクラゲの研究、クラゲをどれだけ捕ったのか。何年がかりだったのか。そこには「効率性」はないですね。あるとすれば、「クラゲの解体作業」ぐらいかな。だから、アメリカでは、国家予算の半分を軍事費に使っていても残りの中から、学術研究に研究室平均で日本より潤沢に研究費が行き渡るようにしており、?というような研究にも配分していると聞いたことがあります。「数打ちゃ当たる」ですね。それと、巨大科学には必要予算をケチらず配分して、ヨーロッパと競争していますね。事業仕分けみたいなことが続くと日本の学術研究は滅んでしまうでしょうね。そうすると、その上に成り立っている応用研究も萎むことになるのに気がつかずに「効率性」を叫び続けていますね。研究とかで成功する見込みのあるものをとなると「後追い研究」のみになるということも理解されていないようですね。これも「常識」だと思うのですが。
 その昔、病院と開業医の役割分担で病院の診療報酬を引き下げたら、患者は開業医にとかで、引き下げ実施したら、患者自己負担の少ない病院に集まったとか。で、その後、紹介状がない場合は初診料を高くするとかしてますけど、ない思い違いをしていたのでしょうね。よく考えなくても気がつくべきことだと思います。

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文化水準が低いのかな。仕分け人。 [文化]

 12月に入ってからも、事業仕分けの矛盾というのか、効率性一点張り亡者の仕分けの問題点が出てきていますね。まあ、どうして、来年度からマニフェストの全てを実行しようなどという大それたことをやろうとしているのかな。一部、先送りのようですが、もっと重点を絞ってもよいのでは。
 それで、弱いところを狙い撃ちしたような「事業仕分け」で芸術活動も「効率性」とかで効果がわからないので「減額」とかになっていたとか。子育てにおいて、そして、教育において、出来うる限り「一流」に触れさせることの大切さに気がついていないようですね。
 「学習」でも、一流と二流ではあとあと大きな差が出てきます。ようは、その後の成長ですね。兎に角「暗記」とかでの学習は伸びないというのか底が浅いですね。興味付けと思考、持続性を持たせるような方法は指導者が一流でないと出来ないですね。皆、自分の育ってきたときに接した方法が一番よいと思い込んでいますからね。
 調理師の味覚は「学習」そのものですね。一流の調理の味をまねることから始めるとか。音楽とかの芸術もね。そこには、「即効性」なないですね。大人が文化活動を楽しんでいるというのと、一流の芸術に接する機会がどれだけあったかということだけかな。残念ながら、今の日本では一部の親を除いて、そのような機会を子どもに提供していないですね。ですから、学校等での芸術鑑賞とかが重要になるのですが、予算が少ないため、場合によると二流でということも起こっています。その上、「減額」等では日本の将来の芸術活動が心配になります。日本を文化不毛の地にでもするつもりなのでしょうね。

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全国学力テストが抽出方式に [文化]

 10月14日の日本経済新聞夕刊社会面に全国学力テストを抽出方式に変えて実施する案が出てきており、来年度予算で抽出でというこで要求するということです。
 どっかの知事が成績開示を求めたりしていましたね。あれ、都道府県別も開示すべきではなかったと思います。教育の基本は競争ではないのです。教育の基本は「人間が人間になるため」です。人間は学習をして初めてよりよい人間になれるのです。
 教育の第一の目的は「人間になるため」で、第二の目的はないような気がします。では、なぜ、競争がというと豊かさを求めているのでしょうか。ところが、有名大学を卒業しているような夫婦でも「機能不全」の家庭生活を送っている場合もあるのです。その影響は子どもに伝わります。
 今、平均点開示とかを求めている人には、教育の第一の目的が抜け落ちているような気がします。結局は自分よりなにかで劣っているものと比べることで精神的安定を求めようとしているのでしょう。それを幾分でも和らげる効果が「抽出」方式にはあると思います。
 ですが、抽出は世論調査で使われるような抽出方法でね。さらに、抽出されたところはその学年、全員受験をね。高校では全員でない場合、実際その高校で高学力といわれるクラスだけを対象に選んでいたところがありましたよ。これでは、全体をみることができなくなりますね。
 その昔、某県で全国学力テストの時、成績不振者を欠席させたというのを聞いたことがあります。このようなことの防止策をとった上で、「抽出方式」にして、成績の開示をしないということが必要でしょうね。

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